2025-03-26

~零れ話~ 京旅行必携、京の街路の「覚え唄」

 ABCとドレミと京都。


何のこと?と思われるかもしれませんね。

エー・ビー・シー・ディー・イー・エフ・ジー・・・
まだ分かりませんか?

これなら、どうでしょう?
ドはドーナツのド、レはレモンのレ・・・

分かりましたよネ。

最初のは「ABCの歌」(正式名称は「ABCsong」)
二つ目は「ドレミの歌」(正式名称は「Do-re-mi-fa-so-la-ti-do」)

「ドレミの歌」はミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の曲。日本語版歌詞については広く知られていますので、ここでは英語の原詞を紹介しておきます。

Doe, a deer, a female deer
Ray, a drop of golden sun
Me, a name I call myself
Far, a long, long way to run
Sew, a needle pulling thread
La, a note to follow so
Tea, a drink with jam and bread
That will bring us back to Do

さて・・・
こういった歌を「覚え唄」と呼びます。なにかを覚えやすくするために唄にしたものです。

日本にもあります。覚え唄。
その代表は、やはり京都の通りの覚え唄でしょうネ。手まり唄として歌われたものです。

東西の通り用・南北の通り用があります。
平安京の碁盤目の町並みを残す京都だから、できた唄であり、今も役に立つ唄です。
覚えておくと、京都観光の際に役立ちますよ。

システムの関係で歌詞の紹介しかできませんが、お許しください。
京都の地図を見ながら、YOUTUBEを聴きながら読まれることをお薦めします。
京都古地図
〔東西の通りを北から〕
まるたけえびすに おしおいけ
あねさんろっかく たこにしき
しあやぶったか まつまんごじょう
せったちゃらちゃら うおのたな
ろくじょうしちじょう とおりすぎ
はちじょうこえれば とうじみち
くじょうおおじで とどめさす
まる:丸太町通り・たけ:竹屋町通り・えびす:夷川通り・に:二条通り・おし:押小路通り・おいけ:御池通り
あね:姉小路通り・さん:三条通り・ろっかく:六角通り・たこ:蛸薬師通り・にしき:錦小路通り
し:四条通り・あや:綾小路通り・ぶっ:仏光寺通り・たか:高辻通り・まつ:松原通り・まん:万寿寺通り・ごじょう:五条通り
せった:雪駄屋町通り・ちゃらちゃら:鍵屋町通り・うおのたな:魚の棚通り
ろくじょう:六条通り・しちじょう:七条通り
はち:八条通り・とうじみち:東寺道
くじょうおおじ:九条通り

〔南北の通りを東から〕
てらごこふやとみ やなぎさかい
たかあいひがし くるまやちょう
からすりょうがえ むろころも
しんまちかまんざ にしおがわ
あぶらさめないで ほりかわのみず
よしやいのくろ おおみやへ
まつひぐらしに ちえこういん
じょうふくせんぼん はてはにしじん 
てら:寺町通り・ごこ:御幸町通り・ふや:麩屋町通り・とみ:富小路通り・やなぎ:柳馬場通り・さかい:堺町通り
たか:高倉通り・あい:間之町通り・ひがし:東洞院通り・くるまやちょう:車屋町通り
からす:烏丸通り・りょうがえ:両替町通り・むろ:室町通り・ころも:衣棚通り
しんまち:新町通り・かまんざ:釜座通り・にし:西洞院通り・おがわ:小川通り
あぶら:油小路通り・さめない:醒ヶ井通り・ほりかわ:堀川通り
よしや:葭屋町通り・いの:猪熊通り・くろ:黒門通り・おおみや:大宮通り
まつ:松屋町通り・ひぐらし:日暮通り・ちえこういん:智恵光院通り
じょうふく:浄福寺通り・せんぼん:千本通り・にしじん:西陣

▼おまけ▼
井上ひさし著「青葉繁れる」は青春ユーモア小説の傑作ですが、作品中に覚え唄にまつわる一文があります。紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~
彼のジャナリという渾名の縁起はかなりこみいっている。いま大学病院の医師をしている彼の長兄が、戦前にこの学校へ入学したとき、最初の英語の教師が現校長チョロ松だった。英語の一時間目にチョロ松は英語の月名に節をつけて、
ジャナリジャナリとヘーブラリ
花の三月マーチましょ
四月エプリルメー五月
六月ジューンにひと目惚れ
七月ツライジュライ恋患い
八月彼女をオウガスト
九月とうとうセップンティンバー
十月恋文オクトーバー
十一月返事がノーヘンバー
十二月すべてがデッセンパー
と教えてくれたそうだが、長兄から教わったこの記憶ソングを、入学早々にクラスで披瀝(ひれき)したとたん、彼はたちまちジャナリという渾名を奉られてしまったのだ。

〔出典〕



2025-03-08

~零れ話~消えた 「人格識見」

 人格識見(じんかくしきけん)


大辞泉にはこうあります。
「人格」は、独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。
「識見」は、物事を正しく見分ける力。また、優れた意見。見識。

独立した二つの言葉です。
が、かってはまるで四字熟語のように、二つ合わせて用いられた言葉でした。
二つ合わせて、リーダーを選ぶ時にその人物の資質を云々する時に、用いられました。

つまり、リーダーとしてふさわしい人間性(倫理観・真摯さ・責任感・悪を憎む心・私心を殺し公益に尽くす覚悟など)と見識(知識・知性・教養・学力など)を兼ね備えているか?を論じる時に、必ずと言ってよいほどに、用いられました。

この言葉の用例を一つご紹介しますと・・・
『民主政治は、政見が自分になるべく近く、人格識見ともにすぐれた人物を自分の代行者として選び、その人物に政治を託す仕組になっているのである。 買収などを行なう者が、人格識見ともにすぐれているはずがない。』(丸谷才一『女ざかり』)
人格識見

「人格識見」という言葉の意味がよく分かりますネ。

けれども、いつの頃からか、死語になった感があります。
人格も識見もない人間ばかりが政治の表舞台に立つようになったからでしょう。

〔出典〕



~零れ話~ 落語で知る「お念仏とお題目」

  お盆ですね。 お墓参りで唱えるのは、お念仏ですか? それともお題目ですか? こう聞かれて躊躇なく答えられる人は、たぶん信心深いご家庭で育った方なのでしょうネ。 私の育った家庭はそうではなかったので、「お念仏」と「お題目」の違いを知ったのは恥ずかしながら30歳を過ぎてのことでし...